SSブログ

24.01.03H #鎌倉 「 #教恩寺 」参拝 _ #鎌倉市大町 / #鎌倉観音巡礼札所 #鎌倉殿の13人 #平重衡 [?神社仏閣]

24.01.03H 鎌倉「教恩寺」参拝 _ 鎌倉市大町

02) お約束?の山門前から、境内参道を横切る桜の幹越しに本堂方向。  _ 24.01.03H 鎌倉「教恩寺」参拝  

.

G ”  日蓮宗 三神山妙法教会 ” からの続き

.

01) 時宗 「 中座山大聖院教恩寺  」 山門方向 遠景   _ 鎌倉市大町  10:11am頃~

              鎌倉観音巡礼 第12番札所(聖観世音) 

源平合戦捕虜の悲恋ものがたり跡

< 写真右の解説ボードの文字起こし >

 中座山大聖院教恩寺
[宗旨] 時宗 (じしゅう)
一遍上人がお聞きになった宗派で、
阿弥陀仏のお経をお唱えする事を本分とします。
総本山は藤沢にある遊行寺です。
【本尊 阿弥陀三尊】 (神奈川県指定文化財)
阿陀如来立・観音菩薩・姿勢菩薩の立像で
源頼朝が平重衡に平家の菩提を弔うように与えられたと伝わる。
【山門】
正面にに十六羅漢、裏面に牡丹彫刻がしてあるのが見所である。
【開基・開山】
開基は北条氏康
  (1515~1571年 ・小田原北条の三代目当主、
      元亀2年10月21日没 法名大聖院殿東岱公大居士)で、
開山は知阿上人と伝わる。
その昔は、浄土宗大本山である材木座の光明寺内にあったが、
延宝6年(1678年) 上人の ※※上人の時に現在地に移されたと伝わっています。
<※印)文字起こし時、判読不能>
平重衛とのゆかり】
平重衛は、平清盛の子(5男)で、その容姿を牡丹の花にえられ、
ユーモアのセンスもある優しく爽やかで、
しかも凛々しくしく武勇を誇る平家の副将軍だったといいます。
重衡は、源平ので平氏が敗れ撤退の際、梶原景時に捕らえられ、
鎌倉へ護送されたのですが、
源頼朝の尋問に対しても武将らしい堂々たる態度と、
優雅な物腰の立派な人柄は頼朝を驚嘆させ、
捕虜の身でありながら特別な待遇を受け、
頼朝の仕女である干手(千住手の前)を侍らし酒宴を許されたという。
この酒宴が縁で重衡と千手の二人は恋に落ち、
重衡が護送されるまでのつかの間、
癒やされた日を過ごす事が出来たといわれます。
やがて、重衡は奈良へ送され、
文治元年(1185年) 6月23日、木津川のほとりで 斬首処刑されたのですが、
その後の千手の足取りは定かではなく、悲しみのあまり床に伏したとも、
又出家したともいわれ、
消息 不明となってしまったと言われる優しい悲恋の逸話があり、
そのまま生涯を閉じたとも、又出したともいわれ、
その酒宴をされた場所が今の教恩寺と伝わっています。

.

02) お約束?の山門前から、境内参道を横切る桜の幹越しに本堂方向。

.

03) 本堂前で、拝礼 合掌 祈念。

I ” 辻薬師堂 ”  へ続く  /  表紙ページ A ” 地蔵堂 ” へ続く

****************************************************

cf. アルバム1.2.3.4.5.6.7.


nice!(0)  コメント(0) 
共通テーマ:地域

nice! 0

コメント 0

コメントを書く

お名前:[必須]
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。